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矢内原忠雄のマックス・ウェーバー理解

近代「資本主義の精神」とは何か by 矢内原忠雄

矢内原忠雄がウェーバーの「資本主義の精神」に関して的確な解説をしています。
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新興資本主義に「精神」を吹き入れた宗教改革の重要な意義を認めることはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』以来、多くの学者の研究題目としているところです。その論争は結局、何をもって「資本主義の精神」と言うかに帰します。簡単に言えば新興資本主義精神を特徴づけるものは営利心であるか否かという問題です。
マックス・ウェーバーはこれを否定して、営利心は人類の歴史とともに古く、決して近代資本主義時代から始まったものではないことを主張しています。実際、ヨーロッパの中世において神聖ローマ皇帝とローマ法王と商人資本とは世界的な搾取の体系をなしたのであり、フッガーなどの商人資本の営利的行為は民衆貧困の一因としてうらみの的でした。そして中世の国内的および国際的搾取の組織より脱することが当時の社会変革の要求であり、それによって生み出された新社会がいわゆる資本主義社会でした。この新社会に理想を提供した宗教改革は営利主義の支持者として現れたのでは決してなく、むしろその反対者として、節欲の徳を強調したのでした。すなわち勤勉と倹約の生活を勧め、世俗的職業を尊ぶべき義務と説くことによって宗教改革は新興資本主義の有効な精神的推進力となったのです。もしも当時の宗教改革者たちが「あくことのない営利の追求」や「利潤のための利潤生産」をもって人の義務であると説いたとすれば、とうてい宗教改革そのものが遂行されず、したがって社会変革もまた成就しなかったに違いありません。
宗教改革者の経済道徳は営利主義の是認をもって始まったのではありません。個人の自由と職業の尊重を確立したことが、新社会に対してなした彼らの建設的寄与でした。宗教改革者にあってこの二つの観念は本来信仰問題として理解されたのです。なぜなら宗教改革そのものの精神、言い換えるなら宗教改革の宗教的意義は、中世のローマ教会に対する信仰革命という点にあります。そしてそれはローマ法王の政治的経済的支配を脱して別個の教会を作るというような制度的変革よりもさらに根本的な問題、すなわち信仰の内容および信仰的生活態度の変革にありました。制度ではなく、信仰をもって始まったのです。それであればこそ、よく宗教制度の改革も成し遂げ、また社会変革の推進力ともなることが出来たのです。もしも宗教改革が単なる外形的制度的改革であったならば、とうてい新たな社会の要求する新たな精神力の供給者となることが出来なかったに違いありません。
それではいかなる点にその信仰改革はあったのでしょうか。当時のローマ教会は言いました、人はローマ法王に従えば救われ、従わなければ救われないと。これに反して宗教改革者は叫びました、すべての人はキリストを信じる信仰のみによって義とされると。ここに人類は始めて「個人」を発見したのです。それはコロンブスのアメリカ大陸発見に優るとも劣らない、貴重な新世界の発見でした。どのような人間もキリストを信じる信仰だけで神に義とされる。その他の何ものも必要とせず、また何ものも彼の霊魂をおびやかさない。神が彼を義と認めるのですから、もはや何ものも恐れるにはおよびません。この世が彼に対してなしえることは、ただ肉体の生命を奪うだけのことで、彼の霊魂の救いを奪うことは絶対に出来ません。---この信仰によって人は「自由」を獲得したのです。こうして人は各自、神に創られた「個人」であり、その個人とは「人格」であり、自由な人格として始めて人は「責任」を知り、独立心と創意力との解放をみたのです。そしてこの信仰が社会における人の経済的活動に応用される時、職業の自由と活発な企業精神が確立されたのでした。人の価値はその信仰にあるのであって、職業にあるのではありません。ローマ教会の主張するごとく、聖職が神に近く、世俗的職業が卑しいのではありません。すべての職業が神より与えられた使命として貴くあり、これに励むことは神に対する義務であるとされたのです。
一六〜一七世紀の宗教改革が当時の社会変革に及ぼした精神的影響は、これをいくら高く評価しても、高すぎると言うことはないでしょう。新社会がこれによって「たましい」を吹き込まれ、理想を与えられたのであって、いかにしてこの個人の自由を確保し、発展させるべきが、その後の社会生活の目標となりました。個人主義、自由主義と呼ばれる政策上の原則、ならびにこれを基礎とするデモクラシー(民主政治体制)の起源はここにありました。
しかしながら、河川はいつまでもその源における清さを保ちません。たとえ「新興」資本主義が営利主義をもってその第一歩を踏み出したのではないとしても、資本主義的生産関係それ自体の進行は、営利主義を社会一般に普及させました。一般的に営利主義社会であることが資本主義の歴史的特徴であることは、疑いがありません。こうして営利主義が社会一般に普及するにしたがって、新興資本主義に理想を与えた個人自由の精神は徐々に信仰革命的基礎より切り離され、世俗的営利主義がこれを自己に接ぎ木して、しばしば社会的弊害を結実するようになりました。個人主義のだらくしたものは利己主義となり、自由主義の腐敗したものは無秩序な競争となり、デモクラシーの邪道は通俗政治家のはびこりとなったのです。すでに一九世紀末にカーライルは「投票箱より何の英雄がでるだろうか」と皮肉を言わせるようになっていたのです。
(矢内原忠雄、「社会の理想」、『改造』1941年一月号、)

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