テキスト:アショーカ王
---------------目次------------------
● 王の仏教入信
● 宗教と政治の関係
● 教権政治の平和主義
● 福祉国家の理想
● 平和政策
● 寛容政策
● 敬虔の法則
● 宗教国家
● 仏教の統一
● 仏教経典の編集
● 世界伝道
● 政治的仏教
● 宗教教育
● 福祉国家の理念
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● 王の仏教入信
原始仏教はマウリヤ王朝アショーカ王の統治下で頂点に達しました。アショーカ王はエジプト人やアッシリア人やアケメネス人の仕方で、自己の業績と命令を多くの石窟碑文や石柱碑文の中に永久に残そうと努力した最初のインド人君主でした。アショーカ王は始めに仏教教団(サンガ)の求道者となり、しばらくして正式な成員となりました(注1:小岩石第1教勅)。
● 宗教と政治の関係
しかし彼が国王の座を続ける事が出来たのは、仏教教団の広範囲な適応を示しています。アショーカ王自身も、この世とあの世のどちらも獲得することがいかいに難しいかを強調しています(注2:石柱第1教勅)。なぜなら、国王は通常の僧侶とはみなされず、独特の特殊な地位を占しめたからです。それとともに、仏教では初めて世界君主の権力がブッダの非現世的な宗教的力を補完すべきものという政治理論の芽が生まれました。ビザンツの皇帝がキリスト教会の保護者であると主張した意味で、アショーカ王は仏教教団の保護者でした。
● 教権政治の平和主義
さらに、彼の教勅は半教権政治の独特の帰結も示しています。王の改宗は始めカリンガ王国に対する大規模な征服の後に生じました。王はこの征服戦争の際、虐殺によって多くの敬虔な人が失われたことを後悔しました。今後は剣によって征服するのでなく、信仰の力によって、信仰のために征服することが自分の子孫のダルマ(職分)であると決意しました。そしてこの平和な征服よりもいっそう重要なのは魂の救い、つまり来世であると述べています(注3:岩石第13教勅)。
● 平和国家の理想
王のダルマ(職分)を伝統的(政治的武力主義的)なものから宗教的・平和主義的なものに転換させることによって、家父長的・倫理的・博愛的な福祉国家の理想が帰結します。王は国土と人民を守ることが義務であり(注4:岩石第8教勅その1)、人々が「幸福」となり「天国を得る」ような公共の福祉のために働かなければなりません。その仕事は迅速を必要としますから一日中いつでも王に対して報告がなされなければなりません(注5:岩石第6教勅)。
● 平和政策
王自身は模範的な生活を送り、戦争と狩りを止めます。(狩りはここでも軍事勤務と結びつけられ、平和時にはその代わりになっていたのです。)代わりに、王は布教に従事し、そのために旅行します(注6:岩石第8教勅その2)。王は不殺生(アヒムサ)の教えに応じて、首都パータリプトラにおける屠殺と食肉狂騒の祭り(サマージャ)を禁止し、王宮の調理場では今後家畜は殺されてはならないと公布します(注7:岩石第1教勅)。人間と家畜のために薬局と病院が設けられ、道路には果実と日陰をあたえる樹木が植えられ、人間と家畜のための休息所が設けられ、施しが分配されなければなりません(石柱第7教勅)。不当な拷問と投獄は中止しなければなりません(カリンガ石窟教勅)。
● 寛容政策
ここに見られる最も重要な特徴は原始仏教の暴力拒否から来る「寛容」でした。自分の国民はいかなる信仰を持っても自分の「子ども」です。重要なことは、その信仰の誠実さであり、その信仰の教えから実践的結果を生み出そうとするひたむきな態度です、と『バガヴァトギーター』を思い起こさせる口調でアショーカ王はのべす。儀式と外面的態度はほとんど役立にたちません(岩石第9教勅)。・・・ 王は贈り物や外面的な畏敬をあまり信頼せず「事実の本質」が遂行されることだけを尊重します(岩石第12教勅)。王は、各自が自己の宗派に実際に誠実に従いさえすれば、仏教徒と同じく、あらゆる宗派とあらゆる身分、富者と貧者、バラモン、苦行者、ジャイナ教徒、アージヴィカ教徒(ヴィシュヌの禁欲的宗派)、その他を等しく尊敬します(石柱第6教勅,第7碑教勅文)。そしてアショーカ王は事実、それらすべてに対して布施をおこないました。特に、初期の勅語においてバラモンに対する尊敬が厳命されています。諸宗派はいかなる事情があっても相互に対する蔑みを抑え、各自の教えの倫理的内容の実践に従事しなければなりません。
● 敬虔の法則
その倫理的教えの内容(最も完全な内容はブッダのダルマに見られます)はあらゆる宗派において本質的に同じものと、明らかにアショーカ王は見なしていまた。彼はこの共通の倫理的内容を「敬虔の法則」と呼び、次のようにまとめ、繰り返し書き記しています。
(1)両親と年長者に対する従順(石柱第7碑文,石窟第5碑文)
(2)友人、親戚、バラモン、苦行者に対する親切
(3)生命への畏敬
(4)激情と度を過ぎたことの回避(石窟第3碑文)
すべての人がこの法則を全部守れるとは限りませんが、すべての宗派は感情の抑制、心の純潔、感謝の心、誠実な態度を育て広めることができます(石窟第7碑文)。すべての善い行いは来世においてその結果をもたらしますが、現世においてもしばしばその結果をもたらします(石窟第9碑文)。
● 宗教国家
「敬虔の法則」の実施と統制のために王は法大官(ダルマ・マハマトラ)という自身の官僚を作りました。法大官は王と王子の後宮の監視もしたように見えます(石窟第5碑文)。地方官僚は5年ごとに全管区で「穏和で忍耐強く、かつ生命を尊重する」人民集会を開かなければなりません(カリンガ石窟碑文)。これらの集会と法大官による監視によって敬虔の法則が普及されなければなりません。婦人たちの品行、従順にたいする違反、敬虔の法則に対する違反が審問されなければなりません(石柱第5碑文,第12碑文))。僧職者は人民にこの法則を教育することに奉仕しなければなりません。・・・ これは全体としてクロムウェルの審問官とその神聖国家を思い起こさせます。・・・
● 仏教の統一
仏教に対する王の熱意は増大したように見えます。キリスト教会に対するビザンツ皇帝たちと似た仕方で、アショーカ王は自らを仏教教会の主人兼保護者として振る舞いました。小石柱サンチー教勅において、彼は僧侶団(サンガ)における分派主義者に反対し、彼らは黄衣(僧の服)でなく、白衣(平民の服)をまとわねばならないと命令しています。「なぜならサンガは一つでなければならないからです。」
● 仏教経典の編集
しかしながら、形式的に見てアショーカ王の最大の革新はそれまで250年も口伝のみで伝えられていた仏教伝承を文字に固定したことです。この革新は、おそらく初めて組織的な書記行政への移行を確立した王と、彼の下で開催された(いわゆる第三回目の)教会会議とによって始められました。・・・ 教会の統一性の維持にとって写本が何を意味したか、そしてそれは伝道に対して何を意味したかは明らかです。中国のような文人の国おいては仏教は経典宗教としてのみ一般的な地歩を占めることができました。
● 世界伝道
仏教の世界的伝道の演出、あるいは少なくともその計画的な布告はアショーカ王に帰せられます。火のような情熱をもって彼はそれに突き進みました。仏教が世界宗教となる最初の動因はアショーカ王によって与えられました。まず、原住民部族が改宗させられました(カリンガ石窟碑文)。しかし王は外国とりわけアレクサンドリアにまでおよぶ西方のギリシャへ大使をつかわし、この聖なる教えを世界中に広めようと取り組みました。また王の使節はセイロン島と東南アジアの地域に向かいました。直接的な成果はどうあれ、アジアにおける仏教の世界的広がりは、ここにその理想的な始まりを見たのです。最初はセイロン島と北方インドで仏教は広まりました。それからビルマ、ベトナム、タイ、その他の東南アジア諸国と朝鮮において、そして変化した形ではチベットにおいて国教となっており、日本と中国でも長い間支配的な宗教となりました。
● 政治的仏教
言うまでもなく仏教がこうした宗教的役割を担うためには、その知識人的救済道は大きな変化を受けなければなりませんでした。第一に世俗の支配者が仏教団の内部において彼自身の権利を獲得したと言うことは全く新しい状況でした。この権利とその影響は大きいものでした。とりわけ正統派の小乗仏教が拡がった地域では仏教徒君主の神聖政治に関して一つの有意義な観念を提供しました。国王は国教会の総教主を任命あるいは少なくとも承認しました。総教主の職はタイではサンカラト、ビルマではタタナバインと呼ばれ、常にカリスマ的に傑出した僧院長がつきました。総教主の職がアショーカ王の下で初めて作られたと言うことは、伝承に反することですが、可能性が高いです。その理由は、それ以前は単に僧院および僧侶の年功が決定的であったように見えるからです。さらに、今でもタイで見られるように、国王は傑出した僧侶に対して称号を与えます。このことは明らかに国王兼祭司の地位から生じたものです。国王は世俗的役人を用いて僧院の規律を検査し、違反する僧侶に責任を取らせます。こうして、国王は教会の規律に関して公の地位を持ちました。王は自らも僧侶の衣服をまといますが、自身の導師によって完全な誓いの順守を免除されていました。このこともまた(何の証拠もありませんが)アショーカ王かその後継者の創造です。これは王に僧侶の地位を与えるのに役立ちました。
● 宗教教育
その結果、正統派(小乗)の地域で僧侶共同体への一時的参加が高貴な道徳と、また青年教育の一部と見なされるようになった。また僧院規律の一時的ないしは部分的遂行は俗人信徒に生まれ変わりの機会を促進させ、功徳となる行いとなりました。これによって、俗人の信仰が僧侶の救済道に対してある程度、外形的に接近することになりました。
貴族の僧院教育およびそれにならって作られた僧侶による大衆の学校教育がもしも合理的性格を持っていたら広範囲におよぶ結果をもたらしたでしょう。なぜなら少なくともビルマにおいて民衆学校教育は普遍的であったからです。ビルマとセイロンにおける学校教育では読み書き(方言と経典語)と宗教指導が行われました。しかし算数は含まれませんでした。なぜなら算数は宗教的目的に対して無益であったからです。こうした俗人大衆に対する教育は原始仏教にはなじみのないものでした。「内面的伝道」に対するアショーカ王の情熱が初めてこうした学校教育を起こす動因を与えた可能性が大きいです。
● 福祉国家の理念
ヒンドゥー文化圏において、ここに初めて「福祉国家(公共の福祉)」の理念がが現れましたた。アショーカ王は公共の福祉の増進は国王の義務と見なしていた。ただし、ここでの「福祉」とは宗教的性格(救済の機会の増進)ないしは慈善的性格として理解され、合理的経済的には理解されなかった。 ・・・
アショーカ王の一教勅は仏教団内部の分裂主義者について述べている。大乗教の伝承によれば、大きな分裂はヴァイシャーリー(第二回)会議において初めて生じたとされ、それはブッダの死後110年目であったと言われるが、おそらくはアショーカ王の下で、彼によって引き起こされたものである。細部の歴史的正確さは別として、事実の性格から見ても、伝承から見ても、最初の分裂の理由はそれ自体はっきりしている。有名なヴァッジー族の僧侶たちの「十戒」については合意は得られなかったが、それらは一貫して規律上の問題であり、教義上の問題ではなかった。問題とされたことの一つは僧院における生活態度に関する個別問題であり、全体としては規律の緩和を目的としており、形式的な関心事であった。もう一つの問題は組織上の問題であって、これは分裂の序曲と結合していた。他にもう一つ重要な経済上の問題があった。それはフランシスコ修道院で一般修道士と厳格修道士の分裂が生じた時と同じ性格の経済問題であった。開祖の教えではいかなる金銭の所有も、それゆえに金銭の施しも禁じられていた。伝承によれば厳格派の一人がこの開祖の教えにしたがって、金銭の施しを拒否した時、大多数の僧侶はこれを在俗信者に対する侮辱であると非難した。施しを拒否した人は自分の正しさを弁明するため、公の機会を利用した。しかし彼は「教団の承認なしで説教した」との理由で罰せられた。上座仏教の伝承によると会議は他の点では初期正統派の教えを確認した。いずれにしても、見解の一致は見られなかった。
しばらくして、規律上の問題の他に、教義上の問題も生じた。その際、初めて来世の救済に関する教義が議論されたのである。伝承によればアショーカ王のもとで開かれた会議で座長は三つの問題を提起した。1.覚醒者(アルハト)は恩恵を失ってもよいか。2.現世の存在は真実であるか。3.神秘的知識(サマディ)は絶え間ない瞑想によって達成されるのか、という問題である。